手頭[1]〔程澗南禁書天学初函持渡一件〕

差出人不明(長崎奉行所か) 向井斎宮宛 辰2月(安永元・辰・17722月)

聖堂370-41

 

(本文)

(端裏書)

62[2]         向井斎宮江[3]

 

卯九番南京船主

程澗南[4]

其方儀去夏[5]渡来

之節持渡候書籍之内

天学初函[6]拾八種[7]右者

御制禁書籍ニ付委曲

相糺候処、去夏渡来之砌

於唐国荷主書肆ニ有合

之分惣込ニ相調、目録等も

受取候侭ニ而出帆用ニ取紛

通例之書籍与相心得、

引合茂不致持渡、今更

後悔不念之段恐入、

疎略之罪宥恕相願、右

書籍不残焼捨候とも

如何様ニも申付候様雖

相願、都而前々申渡通

積渡之諸品船主之身分

としてハ大切ニ可相心得義、

増而御制禁等之儀者

第一可相改所、無其儀、

不念至極候。依之申付方も

有之候得共、全不心付段

致後悔旨申之ニ付、格別之

宥免を以叱置、右書籍

之内不宜教化之所々

墨消申付差返間、

帰帆之節可積帰候[8]

以来積荷物等兼而

申渡置通入念、別而

右体御制禁之品無之様

入念可申者也。

右之趣卯九番船主江

申渡候間、其旨令承知

右書籍之内不宜教化

之所々墨消いたし

会所[9]江可差返候

 

辰 二月

 

(了)



[1] 手頭-〈日国〉手配りの指示を書き留めたもの。心得書。

[2] この墨書「62」は、後代に整理のため付されたものか。

[3] この墨書「向井斎宮江」は本文よりかなり小さな文字で付されている。向井斎宮(173494)は、字は兼美のち外記。名は良翰、号は洙川。第6代聖堂祭主で、在職は明和2年(176512月〜寛政8年(17964月まで延べ32年。『新長崎市史』近世編、751頁。

[4] 程澗南―詳細不明。本文書から、明和8年(1771)卯九番南京船主で、禁書の『天学初函』を持渡ったことが問題となったことが分かる。

[5] 去夏―卯年、すなわち明和8年(1771)夏のこと。

[6] 天学初函-〈国史〉明の万暦・天啓年間(1573-1627)に刊行された叢書。李之藻の編集で、理編・器編に分かれる。李之藻は、徐光啓とともに、来華耶蘇会士マテオ・リッチ(利瑪竇)、ユリウス・アレニ(艾儒略)らの著訳書を基本としてこの叢書を編んだ。理編はキリスト教に関する論説、教義の解説書が中心で、器編は天文・数学・測量・水利など科学技術関連書からなる。寛永7年(1630)の禁書令では32種の書名をあげたが、本叢書に含まれる書はすべて禁書とされた。しかし享保5年(1720)将軍徳川吉宗によって禁書令がゆるめられると、器編の書物が輸入されるようになった。

[7] 拾八種―九州大学付属図書館所蔵『天学初函大意書』(扉に「明和八卯年/新見加賀守様御在勤之言/上/卯九番唐船持渡商売書物之内/天学初函大意書/卯八月」)、一丁表〜裏によると、本文中の「拾八種」は以下の通り。「卯九番唐船持渡。一天学初函 台部二套十六本。種目、西学凡 一巻 葉数十七張。唐景教碑 一巻 葉数十六張。畸人十篇 二巻 葉数二巻合八十六張。交友論 一巻 葉数十一張。二十五言 一巻 葉数十張。弁学遺牘 一巻 葉数廿六張。七克 七巻 葉数七巻合二百二張。霊言蠡勺 二巻 葉数二巻合六十八張。圜容較義 一巻 葉数廿四張。測量法義 一巻 葉数廿四張。測量法義異同 一巻 五張。勾股義 一巻 葉数廿二張。泰西水法 六巻 葉数六巻合七十九張。渾蓋通憲図説 二巻 葉数二巻合八十七張。幾何原本 四巻 葉数四巻合百五十張。簡平儀〇 一巻 葉数廿一張。同文算指前編 二巻 葉数二巻合六十二張。同文算指後編 八巻 葉数合二百五十九張。以上十八種」。柴田篤「『天学初函大意書』における『畸人十篇』」『哲学年報(九州大学大学院人文科学研究院)』第74輯、2015年、1-16頁参照。

[8] 大庭脩『江戸時代における中国文化受容の研究』(同朋舎出版、1984年)、138頁によると、近藤正斎『好書故事』巻74に「右者明和卯年天学初函持渡候節、右之通御伺申上候処、右七種は勧法之処墨消に而御差戻被仰付候。尤前之十一種も御制禁之書中に相混じ持渡候に付、是又一同御差戻相成申候」と書いてある。すなわち18種の内「墨消」処分となったものが7種、「差戻」処分となったのは残りの11種も含めた18種であった。「墨消」処分となった7種とは、この18種で理編のもの、すなわち『西学凡』、『弁学遺牘』、『畸人十篇』、『交友論』、『二十五言』、『霊言蠡勺』、『七克』の7種ではなかろうか。

[9] 会所―長崎会所のこと。長崎地下および唐船・オランダ商館との貿易に関わる一切の金銭上の勘定と貿易に関する諸業務を行う機関で、元禄10年(1697)の貿易改革により、長崎本興善町に設けられ、翌11年から活動を開始し、幕末まで存続した。『新長崎市史』近世編、438頁。

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